どーも、momotaro🍑でございます。
お城、城下町、宿場町巡りを趣味にしております私。
ちょっと前になりますが、奈良県五條市までN-BOXカスタムターボ「STYLE+ BLACK」で下道ドライブしてきました!
今回は結構渋滞に巻き込まれましたが…
行きも帰りも、今回はそれなりの渋滞に巻き込まれましたので、燃費はかなり悪かったです(ご報告は後ほど)。しかしながら、渋滞追従つきACCを駆使しましたので、ストレスや疲れはかなり軽減されました😊
奈良県五條市の近くに来ることがあれば、必ずといって良いほどランチによるのがここ。
五條市に到着したのがまさにお昼でしたので、必ずと言って良いほど立ち寄る「柿の葉寿司ヤマト五條本店 夢宗庵」で、「お昼の特別サービスにぎり」を頂きました。
奈良県五條と言えば、こちらの「柿の葉寿司ヤマト」さんや、百貨店などでもよく見かける「柿の葉すし本舗たなか」さんの本社があり、柿の葉寿司で有名です。
ただ、その柿の葉寿司は、1つしか入ってませんが💦、お味、全体のバランス、お店の雰囲気、そして1,100円というお値段で、近くに来たときには、この特別サービス握りを気に入って頂いております😊
歴史の舞台となった五條
観光案内などを見てみると、五條は「南北朝時代」、「安土桃山~江戸時代」、「幕末」に主な歴史の舞台となっているようです。
南北朝時代 賀名生(あのう)の里
1336年(〈南朝〉延元元・〈北朝〉建武3)、後醍醐天皇は、幽閉先の京都・花山院(かざんいん)を脱出し、吉野へと向かいました。この途中で賀名生に滞在しています。吉野にこもった天皇は、自らが正統の天皇であると主張したことから、京都(北朝)と吉野(南朝)の二つの朝廷が出現する事態になりました。こうして、以後約60年にわたる両朝が対立・抗争する「南北朝時代」が幕を開けました。
引用:https://www.city.gojo.lg.jp/soshiki/bunka/3_1/3462.html
さらに、
後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇は、1348年(正平3・貞和4)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、賀名生に行宮(あんぐう)を定めました(南朝が置かれた)。それから間もない1351年(正平6・観応2)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏し北朝の天皇は廃されます。こうして、わずか数か月のことですが、南朝が唯一の朝廷となり、賀名生は都になりました(このできごとを「正平の一統」と呼びます)。
引用:https://www.city.gojo.lg.jp/soshiki/bunka/3_1/3462.html
ということで、
「賀名生(あのう)の里 歴史民俗資料館」
に立ち寄りました。
賀名生の里歴史民俗資料館は、西吉野の歴史やくらし、そして観光や歴史散策など様々な情報を提供しており、堀家(後醍醐天皇が足利尊氏に京の都を追われて、吉野へ向かう途中に立ち寄った郷士の家)に伝わる南朝の宝物を主体に貴重な歴史資料を展示。後醍醐天皇縁の品や、拝領品など西吉野と南朝の深いつながりを感じられる資料が揃っています。また、明治維新の魁となった天誅組の吉村虎太郎も堀家を訪れ、「皇居」と書いた偏額を残しているそうです。
出典:https://www.gojo.ne.jp/g-kanko/seeing/12anou-shiryoukan.html
こちらには、堀家が後醍醐天皇から下賜されたと伝わる「日の丸御旗」、「一節切笛(ひとよぎりのふえ)」、「天目台(てんもくだい)」などがとても綺麗な状態で展示されていました。
隣にはその「堀家住宅」があり、吉野から追われた後村上天皇、そしてその後の長慶、後亀山天皇の皇居としても使われていたようです。
現在はリノベーションされて「KANAU」という宿泊&飲食施設になっていました。
中央の看板に「居皇(レプリカ、吉村虎太郎書)」と書かれています。
城下町としての五條と「松倉重政」
関ケ原の戦いで功績をあげた「松倉重政」が1万石を与えられ1608年、奈良県五條の二見城に入城。「五條新町」を作り、諸税免除することで商人を集め五條は城下町としての賑わいをみせ、その礎をつくることになる。ここまでは良かった😓
ところで、「松倉重政」と聞いてピンとくる歴史好きの方も多いと思われます。
重政はその後「大阪夏の陣」で功績をあげ、肥前日野江(現在の長崎県南島原市)4万3千石を与えられて移封となり、そこで「島原城」の築城を始めます。
この島原城が禄高4万3千石では考えられないような規模の城であり、幕府に石高を偽ることで天下普請の額も大きくなり、領民から過酷な税を取り立てることになります。さらにはキリシタン弾圧なども行うことになりますが、急死してしまいます。
あろうことか2代目藩主となった子「松倉勝家」は、さらに増税を行い、領民を弾圧。
領民の我慢は限界に達し、ご存知「島原の乱」へと進んでいくことになります💦
天領となり、商家町として発展した「五條新町」
松倉重政が肥前に移封された後、五條藩は廃藩、その後は天領(幕府直轄地)となり、「五條代官所」が置かれ商家町として繁栄が続いたそうである。とくに五條町と二見村をつなぐように作られた「新町通り」沿いは紀州街道(伊勢街道)の一部であり、また横を流れる吉野川の水運もあり商人町、宿場町として発展、その後現在に至る400年もの間、災害を乗り越え先人たちの様々な工夫によって歴史的な町並みが残されています。
この写真の中にはありませんが、建築年代が明らか(棟札が残っている)な日本最古の民家「栗山家住宅」や元禄16年(1703年)の大火の翌年に建築され二階壁面に窓を設けず軒裏まで漆喰で塗るこめるという超防火対策がとられている「中家住宅」なども見応えがあります。
五條新町伝統家屋を楽しむポイントは → こちら を参照!
明治維新の魁 天誅組
幕末の1863年、日本のあちこちで尊皇攘夷が囁かれた中、孝明天皇が攘夷の大和行幸をするに先立ち、8月14日に甥である公家中山忠光・土佐脱藩吉村寅太郎・備前脱藩藤本鉄石・刈谷脱藩松本奎堂ら、約40名の同志が京都を出発、千早峠を越え、幕府の直轄地であった大和五條へ向かいます。8月17日、天誅組志士が挙兵し五條代官所を襲い、桜井寺を本陣として旗を揚げました。翌日、孝明天皇の行幸を待つ天誅組のもとに行幸中止の知らせが届きます。尊攘派のやり方に反発する薩摩藩と会津藩が行幸中止を断行し、わずか一日で天誅組は大義名分を失い、朝廷・幕府から逆賊として討伐を受ける側に立たされました。
天誅組総裁の吉村寅太郎は尊王攘夷派が今後世の中を動かすと判断し、「必ず幕府を倒す事が出来る。たとえ自分たちが敗れたとしても後に続くものがいる。自分達はその突破口となればよい」と考え徹底抗戦を決意します。
総勢100名程の天誅組に対し幕府側は約1万人を動員。天誅組は南に陣を移し十津川郷士に援軍を頼み、高取城に攻め込みますが敗退。その後も各所で24日間にわたって壮絶な戦いを繰り広げます。しかし9月14日、天ノ川辻の陣に総攻撃をかけられ、天誅組は命からがら十津川へ撤退、そして大峰山系を越えて下北山村へ、更に北へ逃れます。9月24日、東吉野の鷲家で待ち構えていた幕府軍により撃退。中山忠光は6人の隊士と共に大坂へ逃れることが出来ましたが、9月27日に吉村寅太郎が討たれたのを最後に、天誅組は壊滅しました。
彼らの抗戦は僅か40日で終わりましたが、人々の意識を大きく変えることとなり、明治維新が実現したのは、このわずか5年後のことでした。
引用:JAF(https://jafnavi.jp/web/?ap=course_gaiyou&course_id=291110548)
今回こちらの足跡は巡っておりませんが、今後の楽しみにしたいと思います😊
漫画家 「楳図かずお」さんの生誕地 五條
まことちゃん地蔵
楳図かずお先生は五條のご出身ということで、ご実家の近くだそうですが「まことちゃん地蔵」というのがありました😊
今回は過去一と思われるぐらい悪い燃費となりました。
行きは外環状線(国道170号線)、帰りは木津川市に寄りたかったので国道24号線を通ったのですが、信号が多く、渋滞にもけっこうひっかかり、エアコンもずっとつけていたということで、
「走行距離」 約190km
「燃費(ディスプレイ値)」16.3km/L
という結果になりました。(写真を撮るのを忘れました)
100km以上走って、この燃費は、N-BOX生活で過去一悪い値だと思います💦
以上
コメント