また必ず訪れたい「伊予宇和島藩の城下町」、土佐脱藩維新の道「梼原(ゆすはら)」そして高知市へ。ホンダ N-BOX 特別仕様車でゆく大阪から四国半周約1020kmの下道ドライブ旅 3日目、その①。


どーも、momotaro🍑です。
先日の「2日目」に続き、

本日は「ホンダ N-BOXカスタムターボ 特別仕様車でゆく下道ドライブ。総距離約1020km!大阪から愛媛、高知の現存天守をもつお城を3泊4日で巡る旅」の「3日目」です。

朝は、旅行の醍醐味No.1と言っても過言ではないホテルの朝食バイキングから始まります😊

必ずご飯もパンも食べます


朝食を済ませたら、ホテルから歩いていよいよ(伊予だけに😆)「宇和島城」へと向かいます。

いよいよ(伊予だけに😆)宇和島城へ

ホテルから「きさいやロード」という商店街を横切り宇和島城へ向かいます。
きさいやロードの看板の上に宇和島城天守が見えております。

ちなみに「きさいやロード」の「きさいや」は「来なさいよ」という意味らしく、西日本ではよく「きんさい!きんさい!」=「来なさい!来なさい!」と言いますが、それと同じような感じなのでしょう。

きさいやロード(宇和島城天守が上空に見えます)

きさいやロード」(商店街)を横切り、「宇和島バスセンター」を右折、

きさいやロード 幅も広く、奥行きもあり立派な商店街です
宇和島バスセンター(指が映ってます💦)

城山北登城口に向かいます。

城山北登城口の門は、宇和島藩の家老「桑折(こおり)氏」の長屋門として使われていたもので、終戦後(昭和26年頃)に移転されたそうです。右に比べて左側が小さいのは移設のときに場所が狭かったので切り取られたみたいです💦

宇和島城は標高73m上にあるので、ここから登っていきます。

ヤバいぐらい趣のある登山道の石垣と植物

登山道は整備はもちろんされていますが整備され過ぎず、野面積みの立派な戦国時代からの石垣と、周囲にある300年、火災や伐採から免れた植物たちに囲まれたその景色はとても神秘的な雰囲気を醸し出しています。

井戸丸跡に残る井戸

直径2.4m 深さ11m 立派です

さらに登っていきます。

本丸の石垣が見えてきます。

幕末の修理後と思われる箇所も見られる3種の「本丸石垣」

宇和島城本丸石垣

登山道で見かけた石垣は戦国時代からの③野面積み(積石の加工無し)が多かったのですが、こちら本丸の石垣の左側は②打込ハギ、さらに左端は③切込ハギが見られます。
この違いについて、①と②は幕末に行われた改修工事の結果ではないかと言われてるそうです。

石垣の主な加工法
野面積み(のづらづみ)」・・・自然石を加工しないで使用
打込接(うちこみはぎ)」・・・積石の接触する部分の隙間を少なくするように石を加工して使用
切込接(きりこみはぎ)」・・・積石をノミ加工しまくって隙間がないように石を加工して使用


ここまで来ると天守がはっきりと見えます。

宇和島城本丸天守

いよいよ(伊予だけに😆)、宇和島城 本丸天守に!

天守は3重3階層塔型(1671年築城)のこじんまりとしたものですが、破風(小さい屋根)もたくさん備えており美しい。前日に訪れた「伊予松山城」と同じく江戸時代またはそれ以前に建設され現代まで保存されている「現存十二天守」の一つです。

現存十二天守
姫路城、犬山城、彦根城、松本城、松江城 (国宝5城)
高知城、宇和島城、伊予松山城、丸亀城、備中松山城、丸岡城、弘前城


本丸からの景色

宇和島市はリアス式海岸の「宇和海」と「鬼ヶ城山系」に囲まれたこじんまりとして落ち着いた温かみのある城下町という印象です。
温暖な気候で真鯛や真珠の養殖、愛媛みかん発祥の地、闘牛などでも有名ですね。

ボランティアガイドさんの話を聞くと楽しさ倍増!

天守の受付をされながら楽しい宇和島の歴史話を聞かせてくれるガイドさんです。
お客さんが入ってくる度に話が途切れるのが逆に面白い😊

宇和島を代表する二人の殿様

築城の名手 藤堂高虎(とうどうたかとら)

戦国時代から江戸時代はじめに活躍した戦国武将です。身長が190cmぐらいあったという噂です。
元々は北近江の浅井氏に仕えていたが、そこから次々と主君を変えたため「裏切り者」と言われることもあった。豊臣秀吉の弟、秀長に仕えてからは特に武功や築城技術において力を発揮し表舞台に現れてくる。
秀長の死後、出家して高野山に入るが秀吉に呼び戻され、伊予国板島(後に宇和島市となる)7万石を与えられ城郭、城下町の回収・整備を開始する。高虎が最初に城作りに関わった城と言われる。五角形の水堀(海水)をもつ海城でここから水軍を率いて朝鮮出兵へ向かっている。
秀吉の死後、高虎は徳川家康に従い、関ケ原の戦い後、伊予今治20万石(今治城築城)加増、その後伊賀国・伊勢国に転封となり伊賀上野城、津城を改修。最終的には約32万石の大名となる。その他、改修に関わった城は、大洲城、丹波篠山城、伏見城、丹波亀山城、膳所城、江戸城などがありまさしく築城の名手である。

「幕末四賢侯」の一人 伊達宗城(だてむねなり)

1615年、藤堂高虎が今治に移った後、奥州仙台藩主伊達政宗の長男「秀宗」が宇和郡10万石を賜り入城(このときに宇和島と命名されたらしい)、初代宇和島藩主となる。
その後、宇和島藩8代藩主となったのが、「伊達宗城」。

この方、かなり優れた才能を持ち、また先を見据える力をお持ちのようで、先代「宗紀(むねただ)」が行った藩政改革を引き継ぐと同時に、いち早く西洋の知識や技術を積極的に取り入れようとしている。
保守的な幕府を批判して蛮社の獄で捕らえられたが牢獄が火事になり脱獄をしたあの「高野長英」を匿い蘭学書の翻訳、宇和島藩の軍の洋式化に着手、また長州からあの「村田蔵六(大村益次郎)」を招き、医学や西洋兵書の翻訳や講義さらには蒸気船の設計技術、造船技術を長崎で学ばせ、日本製の蒸気船を作らせたのこと。
あの西郷隆盛が話を聞きに来たりもしたらしい。

幕末の四賢侯(しけんこう)
・伊達宗城(宇和島藩8代藩主)
・山内容堂(土佐藩15代藩主)
・松平春獄(越前福井藩14代藩主)
・島津斉彬(薩摩藩11代藩主)

宇和島城天守からの眺め


ということで、宇和島城を見学しましたので、いよいよ高知に向かいたいと思います!🚙

宇和島城の話だけで長くなってしまった💦ので、3日目の話は、

続く…



コメント